#令和航海日誌「母の存在」

2024.01.17. - Wednesday -

 

  停止。

 

  今日の朝、一度起き上がった。

 

  朝ご飯も食べた。

 

  だがそれ以上はもう出来なかった。

 

 

  ベッドに戻って、仕事は休んだ。

 

 

  母の存在。

 

 去年からだろうか。

 朝起きたら、母と電話する習慣があった。

 

 特に朝、不調で起き上がれないことがほぼ毎日だったため、

 意識をはっきりさせるためであったり、症状から意識を離すためであったり、

 諸々の改善の一手として、母と電話をし、1時間程度の会話をしていた。

 

 それがある意味、セーブ地点のような感覚であったように思う。

 

 だが昨年末、とある事情で、母との電話を完全にやめた。

 

 

 やめた結果、

 

 思考が止まらなくなった。

 

 

 仕事、休憩時間、自宅、休日。

 

 どんな時であっても、常に頭が動いているような感覚でいる。

 この日々の1つの歯車に過ぎない自分のくせに、リズムが合わないようにから回る気分だ。

 

 あくまで、そんな気分だが。

 

 今日のような、なにをする必要もないイレギュラーなブレーキをかけなければ、帳尻が合わない。

 

 ここまできている自分は決まって、焦っている。

 周りで起こる全てに現実感がなく、自信がなくて怖いのだ。

 

 「会話」がそれを解消してくれることが多いが、解消できる「会話」も限定される。

 

 どんなに信頼のおける友人でも

 どんなに自分の愛した人でも

 赤子の頃から共に過ごす家族でさえ

 

 その存在や言葉が違和感に感じたり、ドラマを観てるようで現実味がなく思える。

 

 から回って焦り始める頃には、

 その人は本当にその人なのか

 今までどうやって話していたのか

 どんな距離感で付き合ってきたのか

 目の前のことが、曖昧になる。

 

 おぼろげであるためか、自分の話し方や接し方が合っているのか、緊張しながら話すのだ。

 

 

 母にだけは、それがない。

 

 幼稚園の頃、手を繋いでくれていた母の顔を鮮明に覚えている。

 学生時代、隣で話を聞いてくれた母の顔がすぐにわかる。

 社会人になってからも、母はいつも変わらない。

 

 そう感じられているからなのか、母が何を考えているのか、わかるような気がするのだ。

 わかるのは、良い部分だけではない。

 喜怒哀楽、何が本音で何が優しい嘘だったか。

 全てをなんとなく察知することができるように思う。

 

 だからこそ、母は鮮明に現実で、曖昧ではないのだ。

 

 

 イレギュラーなブレーキが必要となったこの日。

 

 ワタシは、母に会いたい。

 母と、話がしたい。

 

 何を言っているのだろう。

 母は他界しているわけでもない。

 なんなら、すぐに会える場所に住んでいる。

 

 電話をかけるだけの簡単なことなのに

 それが解決にはならないと感じて、咽び泣く。

 

 いつまでも、母がいてくれるわけではない。

 母がいない時、いなくなった時、

 これに立ち向かえる方法がないといけないと焦りながら、

 

 未だその方法は思いつかない。